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長崎家庭裁判所 昭和56年(家)476号 審判

申立人 川上久夫

主文

本件申立を却下する。

理由

一  申立人は「遺言者井口マサが昭和五六年四月六日別紙記載の趣旨の遺言をしたことを確認する。」との審判を求めた。その実情として述べるところは次のとおりである。

「遺言者井口マサは肺癌のため一年三ヶ月の間○○病院に入院していたが、死亡が危急に迫つたので昭和五六年四月六日同病院において証人川上久夫(申立人)、同川上一利、同井口広の三名立会のもとに別紙記載の趣旨の遺言を口授し、申立人がこれを別紙のとおり筆記して遺言者及び他の証人に読み聞かせ、各証人は筆記の正確なることを承認したうえそれぞれ署名押印した。よつて別紙記載の遺言書の確認を求める。」

二  記録及び遺言書(写)によれば、遺言書作成の日付は昭和五六年四月六日であり、井口マサは同月七日死亡し、本件申立は同月二三日当庁になされたことが明らかである。

三  医師広田良夫、同吉川春夫作成の診断書、岡田君夫、野田和江、野口正行に対する各審問の結果、当庁調査官の調査報告書を総合すると次の事実が認められる。

1  遺言者井口マサは昭和五四年一二月肺癌のため○○病院に入院したが、昭和五六年四月四日ころから呼吸困難を訴えるようになり、同月六日夜病状が一段と悪化した。病院からの連絡で同夜九時ころ井口マサの亡夫鉄夫とその先妻との子である申立人、同井口広、申立人の長男川上一利、井口マサの弟の妻新井ミカ及びその子正行らが病院に集まり、午後一一時ころ岡田神父の主宰でカソリックのしきたりに則り「病者の塗油」の儀式が行われた。その間マサは問いかけに対しかすかにうなづく程度の反応は示したが言葉を発して応答することはなく翌七日午前四時ころ死亡した。最後まで意識は明瞭であつた。

2  前記「病者の塗油」の儀式の模様について、これに立会つた岡田君夫、野田和江は「マサは言葉を発したり、十字を切るような仕ぐさはなく、目を閉じたままの状態で問いかけに対しかすかにうなづく程度であつた。意識は最後まであつたと思う」旨述べ、野口正行は「かねてマサは所有の不動産を井口洋に遣るといつていたし、その時もはつきりした言葉ではなく、口ごもつたような様子であつたので、そのような意味に受取つた」旨述べ、これらの事実から推測される当時の情況に前記1の事実を併せ考えると、当時のマサの病状は極めて重篤であつたと考えられる。なお、申立人は本件遺言書中の遺言執行者の指定に関する部分はマサの遺言には含まれていなかつたとも述べている。

3  本件遺言書はマサ死亡後作成された。申立人はマサ死亡後約一週間を経た四月一四日ころ申立人宅に井口広、井口洋、野口正行らを呼んで遺言書の作成を話し合つたが、申立人やその兄弟はいずれも相続権がないところから司法書士に相談し、その指示を受けて翌一五日申立人が本件遺言書を作成して署名押印し、井口広、川上一利両名の署名押印は後日してもらつた。

四  ところで、遺言は要式行為であり、法定の方式に従つて作成されることが要求され、かつ、遺言者の死亡の時からその効力を生ずるものであるから、その前提として遺言者の死亡の時に存在していなければならないところ、前示のとおり当時のマサの容態は極めて重篤であり、遺言の趣旨を口授する能力を有していたか否か甚しく疑問であるばかりでなく、本件遺言書はマサ死亡時から約一週間後に作成されたものであるから、マサ死亡時すなわち遺言の効力発生当時本件遺言はそれ自体存在しなかつたものといわざるを得ない。

そうすると本件確認の申立は却下するのが相当であるので主文のとおり審判する。

(家事審判官 松信尚章)

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